渋川・吾妻地域在来線活性化協議会概要


 渋川・吾妻地域在来線活性化協議会は、渋川・吾妻地域のJR上越線と吾妻線の活性化を推進し、両圏域の振興発展を図ることを目的に、平成15年12月に、渋川市、北群馬郡及び勢多郡、吾妻郡の関係16市町村のもと発足しました。

 発足当時の構成団体は、渋川市、北橘村、赤城村、子持村、小野上村、伊香保町、榛東村、吉岡町、中之条町、東村、吾妻町、長野原町、嬬恋村、草津町、六合村、高山村でした。

 発足に当たっては、昭和46年から活動してきた「上越新幹線渋川市川島地区駅設置促進期成同盟会」が、少子高齢化の進展、車社会の進展などによる鉄道利用者の停滞の他、現下の諸情勢の厳しさから、平成15年7月、駅設置を断念、解散に至りました。しかし、この活動を通じて両圏域が一体となって進めてきた、長年にわたる地域振興の気運を止めることなく在来線を通じた両圏域の活性化を進めるため、平成15年12月、装いも新たにスタートしました。

 平成の大合併等により、現在の構成団体は渋川市、中之条町、長野原町、嬬恋村、草津町、高山村、東吾妻町(建順)の7市町村となっております。



上越線の歴史


 群馬県と新潟県を結ぶ上越線は、明治12年に新潟県南魚沼郡石打村の岡村貢氏、群馬県前橋市の高橋周禎氏らによって企画提唱され、上越鉄道株式会社を創設しようとしましたが、実現することができませんでした。しかしそこで計画は断念されず、明治22年3月、上越鉄道株式会社を創設。群馬県前橋市から新潟県新発田にいたる鉄道敷設の申請をしましたが、許可されませんでした。その後、明治29年に仮免許を得られましたが、それでも実現には至りませんでした。

 大正時代に入り、政府は産業経済において上越線の重要性を認識し、大正6年12月の国会に政府案として提出、翌年1月に議決され、明治以来の念願であった鉄道敷設が現実となりました。

 工事は北線(越後宮内−茂倉間)が大正7年12月から、南線(高崎−茂倉間)は大正8年4月から着工。大正10年7月には渋川まで開通し、大正13年3月には沼田まで開通しました。さらに、昭和3年10月に水上まで開通、昭和6年9月は最難関工事となった清水トンネルが完成し、長岡から工事が進められていた北線と結ばれて上越線の全線が開通しました。同時に、水上・石打間は電化もされました。

 昭和22年4月に高崎−水上間が電化、昭和42年9月には当時全国で二番目の長さとなる全長13.5kmの新清水トンネルが完成し、全線が複線化されました。


吾妻線の歴史


 明治29年7月、吾妻郡原町の山口六平氏らが発起人となり、渋川から東村、原町、鳥井峠を経て長野県に至る鉄道を敷設するため、上信鉄道株式会社の設立願いを国に提出しましたが、実現には至りませんでした。
また、大正11年には原町出身の衆議院議員、木檜三四郎氏により鉄道建設議案が国会に提案され議決されましたが、関東大震災や世界恐慌などのため実現されませんでした。

 しかし、昭和17年、六合村の群馬鉄山から戦時中の鉄鉱石輸送を目的として渋川−長野原間42.5kmの新規建設路線「長野原線」が国会で議決。長野原線の鉄道敷設は軍需物資の輸送目的でしたので、建設は昼夜を問わぬ突貫工事で行われ、建設に3年かかる予定を2年半(昭和20年1月)で開通させました。

 その後、昭和27年10月に日本鋼管専用線であった長野原−太子間が国鉄に編入され、昭和42年7月渋川−長野原間の電化運転が開始されました。昭和46年3月長野原−大前間も電化され、路線名を長野原線から現在の吾妻線に改められました。同年5月に長野原−太子間は廃止されました。


上越線・吾妻線の歴史 参考図書
「上毛地域鉄道活性化調査報告書」「渋川市誌 第三巻」